若葉台いずみ教会の歩み  〜開拓開始から会堂建築まで 〜


クリスチャン新聞(2008年1月27日)に掲載されました。

※内容は、教会の所属を掲載当時の状況から、現在の状況に変えています。

 東京都 稲城市にある 東京若枝教会 稲城伝道所(長谷川義朗牧師)は新会堂を完成させ、昨年11月3日に献堂式を行った。これを機に名称を「若葉台いずみ教会」と変更し、再スタートを切った。多摩ニュータウン内の公園緑地に隣接する白い小さな教会は、献堂式の出席者が「まるで北欧に建つ教会みたい」と口にするような佇まいだ。

 ニュータウンは時代の必要に応えて意図的に造られた都市。幸福なイメージが先行し、働き盛りや共稼ぎ世代が多く移り住む。だからこそ夫婦、子育て、心の教育、核家族や高齢化など現代家庭の諸問題がそこにある。その人々にいのちの水なるキリストを伝え、真の憩いのみぎわとなること、それが同教会の開拓当初からの願いだ。そのため、伝道所時代は名称に「オアシス」と名付け、今は「いずみ」を掲げた。

 同教会は2000年5月、当時、東京若枝教会の伝道師だった長谷川師夫妻が開拓伝道に遣わされ、稲城市に移り住んだのが始まり。きっかけは、開拓伝道に対する教職間のビジョンの一致と、ミレニアムに新しい伝道の挑戦をしたいという東京若枝教会の宣教への情熱だった。

マンションの一室からの始まり

 計画当初、教会の多い都下ではなく近県へと漠然と考えていたが、『キリスト教年鑑』(キリスト新聞社)や『クリスチャン情報ブック』(クリスチャン新聞)を通して稲城市に教会が少ないことを知った。調べてみると人口6万7千人(当時)に対して実質2教会。しかも多摩ニュータウンの最後の開発区域として人口増加が著しいことがわかった。狙いは定まった。

 だがニュータウン内やその周辺に活動の場を求めても借家一つ見つからない。結局、賃貸マンションの2階の1室を借りて、住居と集会場所を兼ねた。マンションという場所に心配する声もあったが、迷いはなかった。子どもの頃、両親が団地の自宅を解放して教会学校や家庭集会を開くのを見ていたからだ。そこから伝道所が生み出され、今は一つの教会となっている。むしろ神の深いご計画と備えを覚えて励ましに感じた。

 最初は地域の住居を一軒ずつ訪ねて回った。そこから平日集会の出席者が起こされ、その中の1人がクリスマスに受洗。2001年1月から聖日礼拝を開始。母教会も開拓のために祈り、全面的な経済支援を数年に渡ってしてくださった。地縁が全くないため、2004年までは毎年、市のホールでコンサートを開き、そこからも礼拝出席者が与えられ、人数が少しずつ増えていった。

祈り求めた地に一画の希望

 人数が増え始めると、礼拝・教会学校・交わり・奉仕といった活動をマンションですることに限界が出てきた。外来者の駐車スペースはなく、自然に「新しい場所を」というのが群れの祈りとなった。十字架や看板を掲げたいと、以前から物件探しはしていたが、適当な物件がなかなか見つからなかった。調べるうちに、ニュータウン地区には行政の規制が設けられていて、教会を開く場所そのものが限られていることが分かった。

 2005年にはその限られた場所内に建売住宅が出たが、数日の差で購入できなかった。群れにとって大きな挫折。しかし、自分たちのような小さな群れでも購入できる算段がついたことは大きな励ましとなった。親身に世話してくれた不動産屋に「神様はもっとすばらしい計画を用意してくださっている。その時にはもう一度お手伝いをお願いします」と話した。

 その言葉は翌年、現実のものとなった。開拓当初、「教会を建てるならここが最良」と幻を描き、祈り求めた場所があった。「そこは生産緑地」と聞き、諦めていたが地主さんと出会い、生産緑地となっていない一画があると分かった。

 その一画を譲って頂けることになり、教会建築がスタート。母教会の信徒に設計士がいたことも大きな助けだった。納得のいくまで検討を重ね、何度も図面を引いてもらった。施工には、教会建築は初めてだが自然素材にこだわった業者を採用。社長はクリスチャンではないが、「奉仕するつもりで」と、協力してくれた。ほかにも、教会外から会堂献金や教会債に協力してくださる方々が起こされた。中には直接面識のない人もいた。母教会の牧師が献堂のしおりに記す通り、まさに「神の時、地の利、人の和」によってなった会堂だ。